子育てを機に世羅町へ。
結局一番育ててもらったのは私自身でした。
せらワイナリー 醸造長
行安稔さん
子育てを機に世羅町へ。
結局一番育ててもらったのは私自身でした。
世羅町の人は温かく、みんなで一緒になって子どもの成長を見守ってくれる雰囲気があります。私が移住を決めたのも、この環境が大きな理由。妻の実家があるこの町には以前からたびたび足を運んでいましたが、道行く子どもたちが、見ず知らずの私にも「こんにちは!」と自然に声をかけてくれるのです。これは、普段から周囲の大人ときちんとコミュニケーションがとれているということでしょうね。どの子も素直に挨拶してくれる、この光景が当たり前に存在する世羅という町で、私も我が子を育てたいと思いました。 | |
移住を決めて以降、大勢の方から聞かれたのが「仕事はどうするの?」という質問です。でも、なにも山奥にこもるわけではないのです。車で40分圏内には三原や尾道などの市街地もありますし、世羅町にだって仕事はあります。私の場合は移住後の2005年ちょうど町内でワイン造りが始まったので、そこの醸造に関わる仕事に就きました。 |
とは言え、まだぶどう畑もなく、これから栽培を始めるという段階。しかも私自身、もともと電気・電子関係の会社に勤めていたので、何もかも手探りでのスタートでした。でもそんな中、生産農家さんたちは本当に力になってくださいました。素人で、しかも他所から来た私に向け「一緒にえぇもん作ろうな」とかけてくださった言葉は今でも忘れられません。 | |
そこでまず、私たちが目指したのは「100%世羅産のワイン」です。もともと昼夜の寒暖差の大きい世羅町は、農作物がおいしく育つ環境。ぶどうも糖度が高く、色・香りの良いものができます。ただ、町内で全てを賄おうとすると気候によって生産量が左右されてしまうのが難点。一般的には、複数の生産地から素材を集め一定数を確保するのですが、それでは意味がありません。私たちは町内の生産農家さんを一軒一軒回り、良いぶどうを育てるにはどうすれば良いか、共に考え試行錯誤を繰り返しながら一歩一歩事業を進めてきました。また、おいしく育ててくださったぶどうを、どれだけワインの味に再現できるかは私たち醸造に携わる者の責任です。私たち自身も各地の醸造所に出向いて、技術の研鑽に努めました。 |
こうして徐々にワイン作りが軌道にのってきたのが2012年頃。ふくよかでバランスの良い味が評価され、「国産ワインコンクール」金賞など数々の賞をいただけるまでになりました。その時はもう本当に嬉しかったですね、私たちだけでなく生産農家さんたちも一緒になって喜んでくださり、まさに「みんなで成し遂げた!」という感覚でした。 | |
これはワインに限らず、他の農産物にも共通して言えることですが、世羅町にはおいしい食材を生産し、それを商品化して、さらにPRし広めていく力があります。農作物も、人も、町もそれだけのポテンシャルを持っているということです。ですから今後もワインを機に世羅の町を知ってもらえるような、町の観光大使となる商品を造っていきたいと思っています。 |
感謝の思いを持って、今後もワイン造りに励むこと。それが、私にできる世羅町への恩返しです。 | |
そして何より、私自身も変わってきたような気がします。ワイン造りを通してたくさんの方と出会い、同じ思いを胸に歩んでこれたからでしょうね。昔に比べると、ゴールだけでなく、その道中を楽しむ心のゆとりが生まれました。「世羅の町が私たち家族を育ててくれた」。この感謝の思いを持って、今後もワイン造りに励むこと。それが、私にできる世羅町への恩返しだと思います。 |
せらワイナリー 醸造長
行安稔さん