世羅な人々 ずっとの人も選んだ人も [interview]世羅な人々 ずっとの人も選んだ人も [interview]

いつの間にか世羅の町が居心地のよい場所に。
工夫次第で、環境も自分も変えていけるのです。

農事組合法人太平牧場 代表理事

佐古淳子さん

Iターン1968年移住

いつの間にか世羅の町が居心地のよい場所に。
工夫次第で、環境も自分も変えていけるのです。

21ヘクタールの見渡す限りの牧草地と300頭もの牛、牛、牛…。
慣れるまでにしばらく時間がかかりました。

「母ちゃんに、本物の牛乳を」。これが、我が家と世羅町の出合いのきっかけです。もともと北九州出身だった主人は、病気がちだったお母さんのために酪農を志し、あるご縁を得て世羅町に移住しました。昭和43年のことですから、言ってみれば“Iターンのはしり”みたいな感じでしょうね。
そこへ翌年私が嫁いだのですが、生まれも育ちも京都の亀岡で、便利な暮らしに慣れ過ぎていたのでしょう。21ヘクタールの見渡す限りの牧草地と300頭もの牛、牛、牛…。夜になれば街灯もなく星しか見えない環境に、慣れるまでしばらく時間がかかりました。

自分で考えて工夫できるのが農業の面白いところ。
どんどん変えていけばいいのです。

転機になったのは、その後、県の代表農業者として海外研修に行かせてもらった時のこと。他の方々が実によく研究しておられる姿に感動し、「農業って工夫次第でいろんなことができる!今後は世羅の地でこの道を究めていこう!」と決意しました。
それからは畜産方法を研究するとともに、作業工程のなかで必要な部分には機械を導入し稼働率をUP!営業だって自分で回りました。生産者だからといって販売を人任せにしてはいけない!というのが私の考え。小さな営業努力で受注率が上がってくるのです。
とにかく、自分で考えて工夫できるのが農業の面白いところ。旧態依然のものは、どんどん変えていけばいいのです。私たち夫婦も二人で力を合わせて工夫するうち、当初は危うかった経営が少しずつ上向きになっていきました。

農業者が元気になる6次産業。
特に農家のお嫁さんたちが活気づいています。

世羅町で農業をする面白さは、6次産業が活発なところですね。「6次産業」とは、1次産業である農業者が生産だけでなく2次産業である加工、3次産業である販売まで踏み込んで行うこと。1×2×3=6という計算で表され、「1がなかったら計算が成り立たない!」ということから、1次産業である農業者が元気づく政策と言われています。
世羅町でもその通り、6次産業のおかげで農業者がとても盛り上がっています。特に活気づいているのが女性たち。昔は農家の嫁と言えば自由に使えるお金がなく肩身の狭い思いをしましたが、今はこの6次産業のおかげで産直市などで自分でものを販売できます。私もフキや筍、白菜などを加工して市場で売り、そのお金で孫にお小遣いをあげたり自分のものを買ったりしています。

“嘘がつけない”農業は、
子どもたちの人間形成に向いていると思います。

私は、農業は人間形成にとても向いていると思います。例えば、種を撒いてもいないのに「撒いた」とは言えないじゃないですか。自然は正直ですから、日々の積み重ねが全て結果になって表れてきます。ですから、農業は嘘のない真面目な人間を育ててくれます。うちの娘たちも子どもの頃から親を手伝い、農業を通してすくすくと育ちました。
でも、だからと言って、世羅で農業だけしていたらいいというわけではありませんよ。休みの日は街に行って思いっきり遊んだらいいんです。私だって孫とテーマパークに行ったり、旅行に行ったりもします。それでいいのです。ただ、あくまで街は遊びにいくところ。生活の基盤はきちんと世羅に置いて、日々しっかり働き子育てに励むということです。
気付けば、ここに嫁いで約50年。あれだけ嫌がっていた世羅の町が、いつの間にか居心地がよい場所に変わっていました。どこにいても工夫次第で、環境も自分も変えていけるということでしょうね。ですから若い方々も、不安に思わずどんどん移住してきてほしいです。もし困ったことがあったら相談にのりますから、気軽に声をかけてください。

農事組合法人太平牧場 代表理事

佐古淳子さん

Iターン1968年移住
- プロフィール -
昭和40年代に結婚を機に世羅町へ。以来、夫婦ともに畜産業に勤しみ、機械化を導入しながら「農事組合法人太平牧場」を運営。現在は世羅高原6次産業ネットワーク理事として町をけん引する存在。